2017.4月上旬 しだれ桜ライトアップ 櫻堂薬師

桜堂薬師 糸桜(しだれ桜)

糸桜(しだれ桜)

ある時、花の盛りになにもののしわざとも知れず「ときにきたれどむすびめもなし」と下の句を書いて、この桜の枝に結びつけてありました。誰もこの句にうまく上の句が出来なかったのですが、鎌田二郎左衛門尉義行(かまたじろうざえもんじょうよしゆき)(岩村藩士)という人が「ふき結ぶ風にみだるる糸桜」と付けたという話が尾張の長母寺(ちょうぼじ)に晩年を送った無住(むじゅう)法師の「紗石集(しゃせきしゅう)」に書きとめられています。鎌倉初期には宮廷ばかりではなくひろく庶民の間にも二句唱和と称せられて、春らんまんと咲き乱れるしだれ桜の下で多くの人たちが寄り集まって歌に興じました。それは、しだれ桜の形から霊魂が伝わって降りて来るといった信仰が人々の間にあり、その花鎮(はなしず)めのお祭りでもあったのです。この桜堂でも、あるいは都で盛んであった花の下(はなのもと)連歌と同じような形で行われていたのでしょう。


桜堂薬師

 お薬師様は、昔は「瑞櫻山 法妙寺 薬師堂」と言っていました。
 このお薬師の歴史は今から約1300年近く前から始まります。
 奈良時代(710年)元正天皇の皇女様がどうしても直らなかった悪い病気を、神のお告げで知ったこのお薬師に祈願されたところ直ちに良くなられ、喜んだ天皇は全国に薬師の信仰を奨励されたとの事です。
 この時天皇のお礼の手紙を持った勅使が渡られた橋を勅使橋といいます。
 約1200年前の弘仁3年の頃(812年)嵯峨天皇の勅願寺として「三諦上人」がこの薬師を開かれました。この頃、天皇が病気にかかられこの寺の住職の三諦上人に全快の祈願を願われたところ、すっかり病気が治り、天皇の命令でこの寺の修理・増築を指示され、お堂やお寺が二十六から三十六と言われるほど沢山のお寺が立ち並びました。
 そして「高野山」や「比叡山」と並び日本の三山と言われる様になり、毎日の読経の声が近所の村々にまで聞こえたと伝えられています。
 この全盛を極めたこの薬師も、その後約五百年の間(1300年頃)には戦乱が続き、お堂・お寺も次々と荒れて少なくなり、衰退してしまいました。
 しかし、この頃鎌倉幕府から、お寺の領地を頂いて修理・修復をし、お寺の数が二十四と以前の勢いを取り戻し比叡山の末寺となって続いていました。
 元亀二年(1571年)に武田信玄、織田信長の戦乱に巻き込まれ、信長の家来の兼山城主の「森長可」にこの薬師を焼かれてしまいました。
 後にこの様な歴史のある寺を焼いた事を悔やんだ森長可と、鶴ヶ城主の土岐三兵信友が仏像の作成、修理をし復興がされました。
 西暦1600年の頃は、この辺りの殿様は岩村城の松平家乗・松平乗壽でしたが、とても信仰が厚く乗壽公は三度病気にかかられ、三度ともこの薬師にお参りして、すっかり良くなられたとの事です。
 そしてこの頃多くの絵馬が奉納されました。
 ところが乗壽公が静岡県浜松の方へ移られてしまい、それに加え悪い病気が流行し、人の心も荒み、この薬師も見る影もなく衰退してしまいました。
 そして60年位が過ぎた頃、天台の「永秀」と言う偉いお坊さんが立ち寄られました。
 昔の面影もない荒れ果てたお寺の姿を土地の長老から聞いて悲しみに耐え兼ね、この寺の復興を決意されます。
 しかしこの永秀師も病気にかかられてしまい、枕元に弟子の「賢秀」を京都から呼んで、何とかこのお寺を復興する様に望みを伝えられました。
 こうして永秀師の望みを聞いた賢秀も、復興する事を決意し岩村城主の丹羽式部少輔氏純にお願いし、寛文7年(1667年)に復興を遂げます。
 お開帳には比叡山の偉いお坊さんを招いての大法会、国内、近隣の参拝者の目を奪う程の盛大な法要であったそうです。
 隣接する「観音堂」は屏風山麓の大悲山に、峰山観音として祭られておりましたが堂宇荒廃を極めた為、移奉したものです。
 本尊、聖観音は鎌倉以前の作と伝えられております。
 本尊左側には開祖「三諦上人の座像」右側には中興開山の「賢秀座像」が祀られてており、体内には中興の由来が詳細に記録されていると伝えられています。
 また、その横には岩村藩の松平和泉守乗寿公、丹羽家歴代の位牌が祭られております。
 平成22年(2012年)には開基1200年として1200年祭イベントや文化財の展示会などを開催しました。
 地域の保存会やボランティアにより大切に守られている貴重な史跡です。


所在地  瑞浪市土岐町(字櫻堂)5728
問い合わせ  瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
アクセス  JR瑞浪駅下車タクシー5分 中央自動車道瑞浪ICより10分

宗派/(元)天台宗(現)信光寺所属
TEL(呼)信光寺0572-68-3090


桜堂薬師保存会
所在地  509-6101 瑞浪市土岐町5944
問い合わせ TEL.0572-68-3690
ホームページ sakuradoyakushi.hanamizake.com/

http://sakuradoyakushi.hanamizake.com/

仁王門・仁王像- 仁王門・仁王像
仁王門・仁王像
 仁王門は、寛文5年(1665年)の絵図により、単層八脚門切妻造り、檜皮葺きあるいは杮葺きでしたが、寛延3年(1750年)に入母屋造り本瓦葺きに改められました。
 平成19年の「平成の大修復」では、破損、腐朽の部分を補修し全面本瓦葺きとなりました。
 仁王像は、地元の人からは「おにょう様」と呼ばれ、阿形像は像高2.89m、吽形像は像高2.93mです。元禄10年(1697年)に尾張熱田の仏師箕輪幸慶によって再造彩色されていましたが、平成20年に解体大修復により室町時代後期の造立当時の姿に戻されました。

櫻堂薬師絵馬 櫻堂薬師絵馬
 江戸時代。櫻堂薬師の絵馬は7枚が現存しており、本堂回廊に飾られている「慶長絵馬」(岩村藩主松平氏が奉納)・「寛文絵馬」(岩村藩主丹羽氏が奉納)・「亨保絵馬」(風俗絵馬、名古屋の薬問屋が奉納)・「文政絵馬」(松に鷹図、岩村藩主松平氏が奉納)は市、県の重要文化財なっており、県内届指の絵馬の宝庫と言われております。

櫻堂薬師-仏像 櫻堂薬師仏像
 室町~江戸時代。仏像群は火災の際、本堂の東、金剛坊の林の中へ避難して無事焼失を免れて現在、本堂に安置されております。
 「本尊」「日光」「月光像」「十六善神」は室町時代後期の作と伝えられています。
 また「四天王像」「十二神将」は神篦城主の土岐三兵信友が仏師5名に命じて作らせたと伝えられております。

櫻堂薬師舞楽面 櫻堂薬師舞楽面
 岐阜県重要有形文化財(工芸品)指定。舞楽面とは、奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、舞楽の動作に合うよう象徴風に造られています。
 わが国でも最も盛大に行われるようになったのは、平安時代で宮廷や神社、寺院などで行われ、この時代の代表的な舞楽面は春日大社、厳島神社、法隆寺などに残っています。
 当薬師の舞楽面のうち、「羅陵王」、「納曽利」の二面は、顎が動くように造られており、「拔頭」を加えて三面が残っていることで、岐阜県としては誠に珍しいものです。
 このうち、「羅陵王面」を例にとると、鎌倉時代の作りと推定されており、技法は精巧で、漆が用いられて盛上彩色がなされ、材は檜、内面は麻布が漆で固め張られています。
 この「陵王」「納曽利」「抜頭」三面の舞楽面は、元亀2年(1571年)10月の織田信長の兵火からまぬがれた現存する往時のもので、櫻堂薬師の歴史を立証する一方、県内においても貴重な文化財の一つです。
 なお、展示の舞楽面は、瑞浪市窯業技術研究所に依頼し、陶器で作られたもので、実物を二倍に拡大したものです。

三諦上人供養塔 三諦上人供養塔
平安時代、元慶3年(879)。岐阜県最古の在銘石造物。弘仁3年(812)に法妙寺(櫻堂薬師)を開いた高僧三諦上人の供養塔。当時法妙寺は、比叡山、高野山と並んで日本三山の一つと称された。
桜堂薬師-三諦上人

桜堂薬師-賢秀師の供養塔 賢秀師の供養塔
 薬師本堂の再建、仁王像の再造再綵、観音堂の移奉など薬師再興に功績のあった賢秀(中興の祖)の遺徳を偲んで建てられた供養塔です。

桜堂薬師-石塔群 石塔群
 当薬師が嵯峨天皇の勅願寺であった頃の全盛時から、今日までの歴史の集積とも言えるこの石塔群は鎌倉から室町時代に亘る貴重な石塔群であり、全盛時には三十六坊とも二十四坊とも伝えられた面影も今はなく、開山の三諦上人、中興の師永秀、賢秀師のほか、中興二世、中興三世の代々住職の供養塔を中心にして、かつて桜堂の各地、奥山の山中に跡を残す坊跡に散らばる苔むす五輪塔、宝匤印塔を拾い集めて祀ったのがこの石塔群です。
 応永9年10月13日(1402年)の刻印のあるものもありますが、今や古老のなかの記憶となりつつある現在、かつての坊が地名として僅かに残っているに過ぎませんが、私達はこの数々の石塔が坊の名前と共に何故か身近に感じられます。
由緒ある桜堂の歴史と共に生きてきたこの石塔群を、坊名と共に次の世代に末永く守り引き継いで行きたいと思っております。
・本坊…妙法寺、根本地山安院、東乃坊、西乃坊、南乃坊、北乃坊、金泉坊、洞乃坊、満月坊、家乃坊、吉祥坊、杉本坊
・被官坊…中円坊、不動坊、里乃坊、よりき坊、じやがね坊、宝林坊、金剛坊、寂乃坊、大通坊、中陰坊、多聞坊、荒神坊

桜堂薬師-双生竹 土岐双生竹
 双生竹は箭竹類の「矢竹」で、地下根茎の隣接の節から発芽するので一見して一節双竿、「ふたごだけ」に見えるところからこの名がつけられています。
 株をなしている数本の竹幹を見ると、ほとんど太さや節間の揃っていることがわかります。
 こうしたことから昔から武士の間で矢竹として珍重され「神箆」「一鎌箆竹」などとも呼ばれました。
 伝説によると源三位頼政が仁平3年(1153年)禁裏を悩ませた紫宸殿のヌエを見事射とめたときの矢も、自領のこの土岐の双生竹で作ったものであったといわれています。
 また、土岐町東部のことを今でも神箆と呼びますが、この地名も双生竹から生まれています。
 鶴ヶ城一帯に群生していたという双生竹も近年絶滅に近い状態です。
 双生竹は、新潟県佐渡の矢島、瑞浪市が代表的な自生地です。

桜堂薬師-弁財天 弁財天

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定年退職後、いろいろなことに挑戦をしつつ旧中山道歩きをされ大湫宿、細久手宿を訪れています。 38日間かけて約535kmの中山道69次を歩いた旅人の旅日記。瑞浪市の大湫宿・細久手宿も登場します。
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