不動堂と木食上人(もくじきしょうにん)

 国道363号線南側の丘の上に建つ不動堂は、かつては恵那新四国八十八所の一番札所でもあった所で、境内には当時有名な泉州の石工を招いて造立したと言われる刻経塔を始めとする石仏群があります。
 木食上人は、昔この地にたどり着いた修行僧で、「この地こそ長年探し求めた地である」と粗末な小屋を建て住着き、ぜんまい、わらびなどの山菜を常食にしながら、住民に生きる智恵を授けたので、木食上人と呼ばれ尊敬されたと伝えられています。

(陶町の歴史散策マップより)

水上不動堂

石段を登った左側の石碑が文字判別不能だが道祖神と思われる。

(もっと知ろう“陶”より)

木食上人(もくじきしょうにん)

(1)木食上人とは
 江戸時代も中期になり陶業が衰えると、歴史上に陶に関する人の名前はほとんど出てきません。そんな中、水上村の木食上人を取り上げたいと思います。
 猿爪生まれの私には「木食上人」に関する知識が全くありませんので、木食上人を調べてみると「上人(しょうにん)」というのはお坊さんのことを尊敬の気持ちをこめて呼ぶ言葉で、「木食(もくじき)は、木食戒(穀断ち)(火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行)を受けた僧のこと。」とあります。そして、木食上人と呼ばれたお坊さんは日本全国に何人もいることが分かりました。
 なかでも有名なのは、木食応其(おうご)という上人が特に有名です。もともとは近江の武士であったが天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家している。高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。しかし、あくまでも客僧という立場であり、正式な高野山の僧とはならなかった。その後、秀吉から高野山の復興援助を得、高野山の再興にあたった。また、応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。
 もう一人有名なのが、木喰行道で故郷は山梨県身延町の古関丸畑(ふるせきまるばたけ)です。生まれた家を離れ、お坊さんになり、木食の修行をするための誓いをしたときから自分のことを「木食行者(ぎょうじゃ)行道(ぎょうどう)」と名乗るようになりました。
 その後、全国を巡り歩くのですが、各地に木彫りの仏像を多数残していて、その木彫の顔は独特の笑みをもって微笑仏と呼ばれ、一木造(いちぼくづくり)の仏様を数多く残した円空と並び称されている方です。九州の宮崎県にいる時「木喰五行菩薩(もくじきごぎょうぼさつ)」と名前を改めました。このときから、「木食」のかわりに「木喰」という字を使うようになっています。
 ですから、耳で聞くと同じに聞こえますが、木食上人と書かれた場合には「木食行をおこなうお坊さん」の総称、木喰上人と書かれた場合には「古関出身の木喰行道」のことだとわかります。
 木食行には、①五穀を断って火食しない ②五穀を断ったままで回峯行 ③ぼん字の読み書き、解釈 ④)石彫および木彫作法などがあります。
 全国的には木彫りの仏様を残した上人が多いようですが、水上村の上人は石彫りの仏様を残しています。
(2)水上村の木食上人
 水上の木食上人の痕跡を探してみると、
① 水上の不動庵裏の墓地中央に高さ170cm程の立派な石像があります。「明和2年(1735年)、木食実元(じつげん)立之」の刻印があります。
② 水上の不動庵前の石像群、その中に高さ約2mの納経供養塔があります。
③水上関屋(陶栄自動車西の山の上)の石仏群、その中に高さ約1mの弥勒菩薩像があります。
③ 水上浄円寺に大般若600巻が6個の箱に収められている。箱には「明和2年乙酉(1765年)無動庵実元」の記述あり。
などが挙げられます。
 また、上人の墓である無縫塔には密教何世と刻印されている。
これらの事から、石工の技術がある密教系(高野山真言宗系)の僧らしいことが分かります。
 水上の木食上人は正徳3年(1713年)から明和6年(1769年)の56年間滞在し、年代別に宥宣(ゆうせん)宣印(せんいん)頼深(らいしん)実元(じつげん)宣栄(せんえい)の5人が確認されています。この5人は同時期にいたわけではなく、交替で一人づつ、あるいは数人が不動庵を中心に活動したと考えられています。不動庵は宥宣が開山し、実元が最も活躍されました(多くの石仏ほかを残した)。したがって、水上の木食上人というと実元のことを指すのが一般的なようである。
 当時の農村は度重なる自然災害に苦しめられ、生活に追われ貧困や病気などに悩まされることが多くありました。神仏に対し日照りが続けば雨乞いをし、暴風雨が来ぬこと収まることを願い、また病気になっても医者は村にいませんから神仏に治癒を祈ります。後生の安楽も願ったことでしょう。したがって、村民は村に来た宗教者の説く仏法に集まり、暖かく迎えたのではないでしょうか。
 水上村の木食上人も宗教者の一人として、木食修行で自分を厳しく律し、水上村民の幸せを願い、仏道を実践された方だと思います。
(3)水上の木食上人の出身地
 「陶町史考」で水野白秋さんは、水上村の木食上人は長野県高遠の出身で真言宗の僧籍を持つ人ではなかったのか、と推察されています。その根拠は高遠藩に水上村(91石)という地名があり、ここ出身の僧が旅の途中に同じ地名で景色もよく似ていた水上村で庵を建て修行することにしたのでは…。また、高遠には石工が多数おり、この人たちは各地に散って石造物を残している。当時、次男三男は口減らしに家に残ることは少なく僧になるものも多数いたのでは…。を挙げられています。
 そこで、白秋さんの推察を検証してみますと、長野県の水上村は現在の地名で『長野県伊那市高遠町藤澤水上』があります。高遠市の中心から北へ延びる柄突峠への道沿いにありました。この道は柄突街道と呼ばれ高遠から茅野市(岡谷市の東)への道です。山間部を抜ける点では中馬街道と似ているかもしれません。長野の水上村は標高1000m以上の高地ですので、美濃の水上村(標高400m 強)が温暖な地に思えたかもしれません。
 藤澤水上について伊那市の広報「地域の教科書」では次のように紹介しています。
『35世帯、74人が暮らす(平成27年4月1日)小さな集落ですが、皆仲良く暮らしています。保育園まで、徒歩10分ほどで、遊具を備えた遊園地があります。3つの神社があり、集落の南、山頂にある金毘羅神社は、石の玉垣に囲まれた鞘(さや)堂の中に、檜
皮葺(ひわだぶき)の祠(ほこら)があり、諏訪の立川富昌による竜や松などの細かな彫刻が施されており、伊那市宝に指定されています。集落の南にある熊野社には、大きな鳥居と大きなしだれ桜があり、春の杖突街道の写真スポットとして人気があります。集落の北には、「鳥の趾」の形をした葉を持ち、世界的な珍種とされる「トリアシカエデ」があり、こちらも市宝に指定されています。高齢者の方々も、元気に花壇やゲートボール等を楽しんでいます。』
 また、ネットで<高遠石工とは>を調べてみると『江戸時代の信州高遠藩は小藩であり、山間部のため耕地面積が小さく、農民は農業だけでは生活が成り立たず、藩の財政も非常に苦しかった。高遠はたまたま石材が豊富だったので、副業として石屋を営む者が多かったので、そういう背景のもとに、藩の政策として、石工の旅稼ぎを奨励した。多くの石工が中部地方や関東地に旅稼ぎをし、高遠石工の名声を高めたといわれる。』とありました。
 また、『高遠藩は、これらの諸国へ旅に出た石切職人を取り締まるため、各郷に「石切目付」を置いて運上金の取り立てを行いました。ちなみに文化8年(1811)高遠藩が石切職人に課した運上金は171両2朱だったそうです。』ともあります。運上金逃れで、石工技術者が僧となり、自由に腕を振るえる立場においた人が水上の木食上人だったかもしれません。
 大川八王子神社前の灯篭は、文化3年(1806年)信州住石工の刻印がありますから、高遠石工の作だと思われます。
 ただ少々疑問があります。一般的には木食上人と呼ばれる人の滞在はわずかで、ひとところに留まることなく旅したと考えられていますが、水上村の木食上人は延べ5人ではありますが不動庵を建てて、そこを根城にされている点です。
 そこで私が考えるに、高遠藩水上村生まれ次男坊か三男坊が食い口逃れで出家し諸国を旅するも、その厳しさ・貧しさ・寂しさで生まれ故郷への思いが募る中、旅の途中に故郷と同名で景色も似ている地を見つけた。生まれ故郷には帰れぬ身の上なので、「ここを第2の故郷にしよう」と、掘っ建ての庵を建て少しばかりの農業のかたわら木食修行に励み、村人に弥勒の教え(真言宗)を説いた。村人も「ありがたいことだ。弘法さんが来てくれた。」と歓迎してくれた。そこで一層木食修行に励んでいると、この話しを聞きつけた同郷の出家者が訪れ「我もここで修行いたしたし。」ということで、数人で、あるいは交替で修行に仏道に励むことになったのではと考えます。つまり、また旅に出る人、留守する人がいて高遠出身の数人が集う基地になったということです。彼らは木食上人というものの純粋な木食行ばかりでなく、少しばかり農業もする半俗の生活をしたのでしょう。そんな中で実元は特に水上村滞在が長く、村で木食行・仏道に励んだ人だったということだと思います。
(4)むかしばなし「木食上人」
 以下は「すえまちむかしこぼればなし」小木曽茂博著の中の「木食上人」創作昔話しをそのまま引用します。
 肩から腰に掛けてひと包みの荷を背負い数珠を首に掛けた一人の旅僧が、春風に誘われるかのように中馬街道を歩き続けている。饅頭傘に墨染の衣をまとい白い脚絆に草鞋履きの姿である。水上の市場平まで来ると肩の荷を下ろすでもなく、笠を取るでもなく、風通しの良い木陰に腰をおろした。饅頭傘の縁を右手でぐいと押し上げ空を見上げた。その顔立ちは眉毛が濃くて目が大きく頬は少しばかりこけているが凛々しい顔の層である。笠かちら覗いた頭は青く剃りこんだ坊主頭ではなく、髪は長めに伸びている。目を空から地上線上に移し周囲を見ていた旅僧は、外山の谷深い山並みをまんじりともせずに見つめていたが、やおら立ち上がると独り言をつぶやいた。
 「ああ、谷深い山はここだったのか。夢に出てくる山々と全く同じだ。ありがたい仏の巡り合わせだ。よしこの地で仏に仕えよう。そしてこの身を仏に捧げるのだ。」
 心に決めると同時に思わず出た言葉に違いない。旅僧はもうためらうことはなかった。
 どこから歩み続けたのか、ひたすらに探し求めた夢の地が、現実に目の前に現れたのである。今日まで幾日さまよい続けたかわからない疲れた体であるが急に活発な活動が始まった。陽はもう中央にさしかかっている。僧は近くの民家を訪ね、山の持ち主に了解を得ると背負った荷から一丁の鉈(なた)を取り出すと一目散に山に入っていった。大きな岩とせせらぎのある場所を選ぶと藤つるや満作の木を使って横木を立木に縛り付け器用に庵を造り上げた。ここが旅僧の生活の場となるのである。
 米や麦・粟やひえ大豆などの一切の穀類を断って、木の実・根や若芽だけを食べて修行生活をするのは大変なことである。春から秋にかけての生活は、野山に出れば何かあってあまり不自由ではないが冬の生活は大変に厳しい、といって春から秋にかけて楽であったというわけではない。雨の日のことも考えおかなくてはならないし、布団代わりの干し草も冬のためにとっておく必要があるからである。特に最初の一年はどこに何があるかわからず足を棒のようにして駆け廻らなければならない。
 午前中、食も取らずに座禅三昧になっていた僧は昼食におそまつな「あらっこ」と「りょうぶ」の芽のゆでたものを食べると、粗食ではあるが力強く立ち上がって鉈を一丁手に持って八つが洞の谷に入ってみた。
 岩間にはやせこけた「ぜんまい」や「わらび」や「いたどり」などが生えていた。ぜんまいやわらびを直系10cmほどの束にして、つる草で縛ると持ってきた袋につめた。その場だけで7、8束できたであろうか。僧は庵をめざして速足で谷を駆け下りた。庵に帰った僧は、わらびを桶に入れ枯草を焼いた残りの灰と水をいれてあく抜きをする。ぜんまいはゆでて綿毛を取り除き、むしろの上でもみあげて日干しにする。どれにしてもそのままでは食用にならず骨の折れることである。
 時には若芽のふっくらしたうまそうに見える訳の分からないものを食って腹痛を起こすこともあった。こうして食生活だけでも大変で、そのうえ仏の道を悟らなければならない。
 難行苦行に打ち勝って木食上人が生まれたという。またこうした僧たちによって毒性のものと食用になるものの区別ができるようになったともいえるのである。

(陶町歴史ロマンより)

無動庵不動堂

 樋ノ下の東南直ぐにある無動庵不動堂。ここは恵那新四国八十八所霊場の一番札所に選ばれた所で、やはり不食実元による宝暦12年(1761)この立派な刻経塔や道祖神碑もあり、丘上には同10年の地蔵尊や明和2年(1765)の弥勤菩薩石像らがあり、里伝ではここの奥の鐘撞き堂との関係を伝えいる。

不動堂の名号碑
(正徳3・1713・剣型碑・正徳三発巳歳〇月)

不動堂の刻経塔
(宝暦12・1762・刻経塔・四面種子・四面陀羅尼文)
 陶町水上不動堂のものは塔高1.8mでやはり塔身四面に種子、台座部四面に陀羅尼文という典型的な塔型のもので基礎部に「伝灯阿闇梨金剛木食実元立之 宝暦十二壬午三月十日 石大工山之内吉保伊右衛門藤原氏」とあるものです。実元和尚はこの不動堂を中心に多くの石仏石碑を建立している木食系の修験僧の一人ですが、ここの不動堂主であったと考えられる宥宣・宣栄・頼沢・実元らの木食法印と名乗る僧たちはどんな人だったのでしょうか。
 室町末~江戸初期に有名な高野山の木食上人(応其1536~1608)の法系と思われ、宥宣は木食五十三世と墓塔に刻んでいます。千体仏を発願したという木食五行(1718~1810)と不動堂の木食法印ら(1718~1765)とは、ほぽ同時代の人でもあり今後の研究課題として残る一件です。

(ふるさとの石碑と灯篭より)

水上不動堂地蔵

水上不動堂の納経供養塔(陶町水上)

宝暦十二壬午三月吉日伝統阿閃梨金剛実元木食立之 242×18

 形態は、大応寺や宝林寺・至重庵と同型で総高180cm 建立は、宝暦十二年壬午三月吉日、塔身の二段下に
 博燈 阿闇梨 金剛 実元 木食 立之
三段下の基礎に
建立年月日と、石大工山之内村市保伊右エ門藤原政〇 と刻銘がある。
 建立者は 木食上人で、出身地は甲州と伝えられており、江戸時代初期に美濃に生まれ真言宗の僧となり、十二万躯の仏教を刻むことを発願して遊行僧となり、東日本を中心に数多くの一木造の荒削仏像を残した円空上人と共に、木食上人の名は、各地に建立された 石造物の塔や仏像に刻銘されている。この木食上人については、今後の研究に課題を残したい。

(瑞浪の石造物より)

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