大川東第三群窯跡(瑞浪市陶町)

 本窯群は、大川東窯跡群の第三群にあたり、大窯二基・登窯三基が埋蔵されていたが、崩壊および盗掘の危機にさらされていたため、埋蔵文化財の保護・環境整備等の目的をもって昭和五十四年三月発掘調査を行い、整備調査のうえ保存されている。
 本窯群の起源は、文献によると「文明七年(一四七五)武蔵国久良郡の人加藤左衛門尉景信が開窯した」とある。文明七年は応仁・文明の乱による瀬戸工人の「瀬戸山離散説」のときにあたる。大川東窯跡群のうち最も古い窯は、一六世紀末の大窯である。これは先きの景信の後裔加藤景度が天正二年(一五七四)、信長の朱印状を得、間もなく大川入りした年代と一致していることから、一六世紀末起源が最も有力視されている。
 本窯群の大窯と登窯の特色は、ニ号窯(大窯)の場合、特有の分焔柱はなく、昇焔壁が高く、小分焔柱が昇焔壁から離れ、間隔をもつという構造である。三号窯(登窯)は、焚ロとすて間および天井部が既に崩壊していたが、焼威室各房と煙出しがほぼ完全な形で残存していた。各房の出入れ口は向って右側に、色見孔は左側壁に検出された。各隔壁の通焔孔は斜めサマであった。窯床より天井までの高さは、平均一メートルという低い構造の斜めサマ連房式登窯である。
 製品は、釉薬に灰釉・長石釉・鉄釉・銅緑釉・青磁等を駆使した碗・皿・鉢・瓶・壷・甕類・その他がある。特産品としては、鉄釉の茶入や茶壷、菊印花文織部流し黄瀬戸鉢があげられ、一時は中馬街道筋での一大窯業地をなした。
 操業年代は、一六世紀末から一七世紀末までと考えられ、熱残留地磁気測定の結果、一六七〇年ブラス三〇年、マイナス六〇年と検出された。これは登窯の推定年代で製品から見た考古学推定年代ともばぼ一致している。
 昭和五十五年三月建之
瑞浪市教育委買会
美濃古窯跡群存協議会
日本ナショナルトラスト

 大川窯は、武蔵国久良岐群(横浜市)にて代々相馬焼を業としていた加藤左衛門尉景信が、室町時代後半の文明六年(一四七四)に移住築窯し同七年に開窯したと伝えられ、それ以後戦国末期の四代景度(羽柴与左衛門)の時に与左焼として「大川東窯」「大川西釜」を中心に全盛した。出土品は戦国末期の天目茶碗、大小皿類・大小壺類、大鉢、小鉢など日常品が主である。

(現地看板より)

窯業の発祥

 問屋制に関係を持った当地方の産業は窯業です。窯業は農村の副業的工業でした。
 当地域内での窯業の発祥は、現在の陶町地区です。その創始者は、
  文明七年(一四七五)武蔵国久良岐郡 加藤左衛門尉景作 大川窯
  永禄六年(一五六三)尾張国瀬戸 加藤万右衛門尉基範 水上向窯
  天正六年(一五七八)美濃国土岐郡久尻 加藤仁右衛門尉景貞 猿爪窯
  慶長七年(一六〇二)美濃国土岐郡大平村 加藤太郎左衛門景里 水上田尻(たのそ)窯
が定説となっており、陶地区の窯業には右のように室町時代からの歴史があります。大川窯の四代加藤与左衛門は、天正二年(一五七四)正月、織田信長から「朱印状」(認許証)を与えられています。この与左衛門の作品は「与左焼」といって有名です。
 江戸時代にはいると、大川・水上村は小里城主の支配となり、窯株が設けられました。大川・水上の窯焼は共同で租税として米四俵と銀五〇匁を上納していました。元和九年(一六二三)、小里氏が断絶すると、支配は笠松代官に移りました。すると前記の租税のほかに、水上の両窯から永七五0文、大川窯から永五〇〇文が「冥加金」として徴収されるようになりました。その後、正保年間(一六四四~一六四七)の記録には窯役銀を水上村四五匁、大川村三五匁上納したとあります。
 このころには東濃西部の窯業が隆昌してきて、水上・大川の窯焼は衰頽し、断続的に営むようになりました。

(瑞浪市の歴史より)

美濃焼の発祥

 室町期の後半において当市陶町大川地内へ移住し、美濃焼製陶を開始した最初の人は「中世・窯業」でも記したように武蔵国久良岐郡(横浜市)出身の加藤左衛門尉景信で、大川窯における創業は文明七年(一四七五)九月で
あり、この陶系は代々相馬焼であった。彼は正長元年(一四二八)全国行脚の途中一度大川地内を視察してこの地における開業を決心し、四〇年近くを経た文明六年遂に老令の身で移住、築窯したと伝えられている。大川東窯地内といわれているその当初の古窯跡は未だ確認されていないが、数力所に認められている古窯跡のうちでやがて確定もされよう。
 この加藤景信系大川窯は景信を初代として二代伊三郎景光-三代佐久助景忠-四代羽柴与左衛門景度(与左焼)と続き、五代甚八景正が永江姓を名乗って妻木の妻木窯へ移住するまで大川東窯・同西窯、一時下窯・川平窯において製陶しており、戦国末期の与左衛門景度の時「与左焼」とよばれて最盛期を迎え、天正二年には信長の朱印状も得て、つがだち洞・秋葉ケ平に一〇軒以上の製陶・窯職の人戸が所在したとされている。

(瑞浪市史 歴史編より)

 大川浅間神社は、大川窯(武蔵之国の加藤左衛門尉景信が文明7年(1475年)開窯)の何代目かが、祖先の生まれ故郷の関東にある筑波の双耳峰に似た大川の山に、関東の人々が敬う富士山の浅間神社を迎えたと考えられています。

(もっと知ろう“陶”より)

 与左衛門とこま犬

 陶町の窯業の歴史は古い。この大川地内にあった大川窯は、室町時代文明七年(1475)に開窯された。
 その四代目が、羽柴与左衛門景度という人で、名人として「与左焼き」の名を世に広め、天正二年(1574)には、織田信長より朱印状も下された。
 この与左衛門が作製して八王子神社に奉納した鉄釉狛犬は、瑞浪市の有形文化財となっている。また、稲津興徳寺に奉納した「鉄釉四耳壷」は瑞浪市指定文化財となっている。
 これらをモデルにして、「世界一の美濃焼こま犬」と「豊穣の壷」が作られた。

(中馬街道大川地区資料より)

大川古窯跡群

 大川古窯は陶の古窯の中でも最も古く、東窯と西窯の二つの窯跡が現存する。

(陶町の歴史散策マップより)

 八王子神社辺りから南方向(小原方向)に双耳峰(2つの顕著なピークを持つ山)を見ることができます。この山が関東筑波の双耳峰に似ているということで、大川東窯の開祖である加藤左衛門尉景信の子孫が、景信の故郷である関東を偲び、この山の頂きに関東に数多くある富士山信仰の浅間神社を建立したと伝えられている。景信の故郷である相模からはよく見えたであろう富士山に思いを寄せて建てられた浅間神社には、名のある大工に創らせたであろう立派な彫り物で装飾された社があります。
 山には簡単には登れませんから、麓に里宮があります。旅人は、信州の奥の浅間山を思い、街道から少し寄り道して里宮にはお参りしたかもしれません。

 水上・大川に対する遠山氏の支配が比較的緩やかであり、そこに土岐氏の一族である小里氏が進出したと考えられます。あるいは、林昌寺建立に先立つこと15年、1475年に大川窯が開窯していますから、当時、農業以外の貴重な産業「陶器産業」に目を付けた土岐氏が、1480 年頃に配下の遠山氏より大川と、小里から大川への通り道である水上(当時、小里から大川への道は川折からわらび坂を通って、水上市場平へ出て大川へ行くのが一般的であった。)を譲り受けた(当時の土岐氏の力は絶大)のではないかとも考えられます。

大川窯

 大川窯は景信を初代とし、戦国末期の四代景慶の時に「与佐焼」として志野、織部、天目黄瀬戸系の鉢類、壺類、皿、茶碗の日常品をも焼かれ全盛期を迎え、天正二年(1574年)には織田信長の朱印状を得ています。その後、名前も羽柴与左衛門に変えて安土桃山文化の一翼を担いました。
 大川窯は東窯と西窯があり、大きいのは東窯の方で東窯川上流の山に位置し40基くらいあったと確認されています。当時の窯は1回の焼成で使用済みが多かったようですが、それにしても相当な数です。西窯の方は現在の丸大製陶所の辺りにあったようです。こちらは試験的な窯であったようです。
 小里の興徳寺には羽柴与左衛門景慶作の茶壺が現存しています。江戸時代の登窯で焼成された作品として大きさ、質の面ですぐれた壺のであります。底に大川村、与左衛門の刻銘と「くるみ印」があります。

 猿爪桜ヶ丘公園には、大川窯の加藤左衛門尉景信、水上向窯の加藤万右衛門尉基範、猿爪窯の加藤仁右衛門尉景貞、水上田尻窯の加藤太郎右衛門景里の4人を祀った陶祖碑があり、毎年8月13日に恵那陶磁器工業組合により陶祖祭が催されています。

羽柴与左衛門

 ひとつ疑問があります。大川窯四代目 加藤景慶はなぜ姓を羽柴に変えたのでしょうか。羽柴という苗字の創始者は羽柴秀吉のはずです。秀吉が羽柴を名乗るのは、木下から改姓する際、織田信長家臣先輩の丹羽長秀の羽と柴田勝家の柴から各一字を賜り「羽柴」と名乗ったとされています(1573年)。したがって、羽柴の姓は信長より朱印状(1574年)とともに賜ったという説はどうかな?と思います。
 羽柴姓は、後に天下人となる天下の羽柴姓ですから簡単には名乗れなかったと思います。
 秀吉は羽柴姓を臣下の数人に与えています。その中に織田重信という人物がいます。重信は織田信長の嫡男織田信忠の子です。秀吉は信長の死後、清州会議で自分を後見人にして幼い三法師を織田家の相続人とした話しは有名かと思いますが、その三法師が重信です。
 重信は天正20年(1592年)13歳で美濃国岐阜13万石の主となります。そして秀吉の朝鮮出兵(1593年 文禄の役)に伴い渡海します。その時、重信の家臣が高麗茶碗の最高峰「井戸茶碗」を持ち帰ります。重信はこれを秀吉に献上すると、秀吉より羽柴姓を賜り、岐阜中納言の官位も授かりました。信長より「朱印状」をたまわる程の景慶ですから、織田家とは信長死後も親交があり、陶工景慶は羽柴重信より羽柴姓を許されたのではと思います。
 景慶にしても、その頃は大川窯が与左焼きとして隆盛した頃ですから他の窯と差別化する必要があったのかもしれません。この頃の陶地区の窯はすべて加藤姓で、大川窯以外は近隣からの移動者ですから、「自分の祖先は武蔵国の出身で遠く離れた美濃の地で、羽柴秀吉公同様に一旗あげるぞ。」と主張したかったのかもしれません。

(陶町歴史ロマンより)

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