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小里城址 御城印

小里城址 御城印

販売価格 1枚300円

販売場所
 きなぁた瑞浪 TEL0572-26-8617
 エディオン・コバヤシ電器 TEL0572-68-3253
 めん処屏風山 TEL0572-68-8403



 小里城山城跡は、小里記によると土岐氏の支流である、小里出羽守光忠が天文3(1534)年に築城した山城で、以降小里氏代々の居城となりました。
 天正元(1573)年、岩村城(恵那市)が武田勢に攻略されました。対する織田信長は、岩村城奪回の拠点とするため小里城、鶴ヶ城(瑞浪市)を固めました。信長の命を受けた小里氏3代光明らによって小里城は大規模に広げられましたが、この工事途中の天正3(1575)年12月、岩村城は織田方の攻撃で落城したので、小里城の改築も本丸(楼)構築の途中で中止されました。
 小里川にかかる城山橋を渡って城山の麓を少し登ると一ノ木戸跡の石積が残り、ついでニノ木戸になります。次の三ノ木戸(大手門跡)の石積は左右共よく残り、その上に御殿場跡と呼ばれる300坪余りの曲輪(平坦面)があります。ここから約600mの急坂を上ると頂上に至ります。その頂上には本丸(櫓)の石積みが残り、その付近に石材が当時のまま散在しています。

瑞浪市稲津町小里2718
瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
 JR瑞浪駅下車タクシー10分 中央自動車道瑞浪ICより15分

小里城マップ 瑞浪市観光協会

 小里城主助右衛門光親が祖父助右衛門光明の菩提を弔うため、城山の麓屋敷近くの小里川の辺りに、慶長六年(一六〇一)興徳寺を建立したが、同十四年の夏大雨のため城山が崩壊し、寺も住持も押し流されてしまったので、同十六年に、廃寺となっていた大蔵寺(前尾里氏の菩提寺)の跡へ興徳寺を再建した。

小里城山城跡について

 濃州小里記によれば、天正三年(一五七五)織田信長が岩村城攻略のため、小里の城を向城と決め、小里氏に築城を下命した。凡そーケ月を経て本丸の石塁は出来上がったが、城の完成前に岩村城が陥落したので、小里城の竣工は見られなかった。しかし、この山城築城の構想が後に安土城築城の原型となったということである。
 現在の石塁は、 一部石がきの崩壊した箇所を原形に修復したものである。
 城跡の東の広場には、未使用の大きな割石が数多く残っている。それらの石は、当時の石割技法を推測するのに大いに参考となるものである。
「石塁は多角形半地下式天主台」であるという。

 南側の石垣は昭和二十九年に修復したものである。本丸石塁は 「多角形半地下式天主台」であるという。

小里城跡の碑

 自然石(扇平)加工
 城山頂上城跡 H 93cm W 75cm
碑銘
碑の北面
額部に小里城跡
下部に碑文
碑の南面額部に
本城桝形
下部に碑文
北面小里城跡の碑文
左の通り
(桝形-多角形石塁のこと)

小里城跡(碑の北面)

 小里城には古城新城とがある。古城は角馬場にあって平安朝の末期に源頼政が美濃の守護であった頃その居城の一つを築いて長慶寺を建立し美濃源氏の拠点としたもののようである。新城は諏訪にあって鎌倉時代に土岐氏の一族国衡が三角に住み数代の拠城となし小里氏を称した。小里国定は正中の変に名が高い大蔵寺を建立した。
 本城は城山にあって天文三年小里出羽守光忠が小里城主となって本城を築き小里助右エ門の祖となった。以後光次光久光明光親光重等の拠となる。興徳寺を建立した。

本城桝形の碑

 自然石(肩平)加エ
 小里城山頂上城跡 H 93cm W 75cm
刻銘
碑の南面
額部に
本城析形
下部に
以下の通り碑文あり。
「桝形-多角形石塁のこと」

本城耕形(碑の南面)

 天正二年小里助右エ門光次の時織田信長岩村城攻略のため本城を向城とした
 長子信忠は光次と計って郡内の諸将に命じ来援させて城廓を改修し析形を本丸に築いた
 元和九年城主の急死によりて以後城主がなかった
 自来四百有余年の風雨にさらされ草にうずもれてその影もなかったのを村民有志は本城の清掃析形の復元をおもいたった
 委員加知菊平安藤磯七成瀬金一熊沢亀次は和田利通大島義雄等に計り工人成瀬国平に依頼して石垣の修復をしたるものである
 昭和二十九年三月三十一日 稲津村祖先遺徳顕彰会

小里氏御殿場跡の碑

 自然石加エ
 小里城山麓 H 96cm W 57cm
刻銘
小里氏
御殿場跡
碑陰記
下記の通り

小里氏 御殿場跡の碑文

 此処は天文から元和の間約七十年小里氏の居館及び小里城砦の大手門のあった処である
 当時大手門の内に本館書院長屋倉庫厩舎等が並び建って上下一郭千余坪に及んでいたが元和九年に至って宗家に嗣子がなかった為断絶して一族離散大手門だけ全源山興徳寺の山門に移築せられて他は遂に荒廃に帰したと伝えられる
 茲に三百数十年の往時を偲んで此碑を建てる
 昭和二十九年三月三十一日 稲津村祖先遺徳顕彰会

(稲津の石造物より)

東濃の戦

 天正元年(一五七三)、いよいよ信玄は信長攻略の軍を発しますが、四月の野田城攻撃の途中に急死して彼の壮図は坐折し、信長は急場を救われます。
 父の志を受け継いだ武田勝頼は、天正二年軍をおこして東濃に攻め入り、岩村城を拠点にして三月には十八砦の大半を落し、戸狩城山にも砦を築いてこれらを固めます。これに対して信長は援軍を神箆城(河尻氏)小里城(池田氏)、高山城(森氏)に送ってこれを奪回し、城を固めさせ、ようやく瑞浪の線でこれを防ぎます。
 翌二年(一五七五)五月、勝頼は西上を志て大軍を率い、織田・徳川軍と長篠に戦って大敗します。信長はこの機をのがさず小里・神箆城の大改築を行なわせ、六月には嫡男信忠の軍勢をここに派遣して岩村城奪回を命じます。土岐三兵・小里光久らをはじめ東濃諸氏は岩村への通路を遮断し、神箆城の河尻氏を先鋒として森氏らが城を攻めて、ついにこれを下し、東濃は約二十年ぶりに武田氏の手を放れることになり、岩村城へは織田方の河尻氏がはいり、東濃の諸氏も安堵し、戦いの続いた瑞浪付近にも久しぶりに平和がよみがえります。
 小里城山城跡の石積みや神箆城跡の柵穴などもこの天正二、三年になされたものです。

本能寺の変と森氏

 天正十年三月に、宿敵武田氏を減ぼして甲信地方を平定した信長は、続いて先年から秀吉に攻めさせている中国の毛利氏攻略に自ら出発します。
 ところが六月二日、明智光秀によって本能寺の変かおぎ、信長は本能寺に、信忠は二条城で死にます。東濃勢では信長に従っていた岩村城主の森蘭丸、信忠の陣中にあった小里城主の光久や妻木の頼知らも討死します。

(瑞浪市の歴史より)

 東濃地方は織田氏と武田氏の勢力の接点となり、土岐・恵那両郡ともに戦火の中心地となり、当市の鶴ケ城・小里城・権現城などもその拠点として争奪のことが繰り返されて、明白寺・酒波神社ほかの寺社・民家が兵火に羅災することも多くあった一時期を迎えるのである。

 頼兼に従って正中の変に戦死したのは、鶴ヶ城をとりまく出砦の一族たちであった。 尾里太郎国定は「尾里城」の主で、城跡は現在の稲津町小里諏訪興徳寺西南の丘がそれで、土塁の跡をとどめ小里新城と呼ばれているものである。なお小里にはこの他に旧稲津中学校横の小里古城(頼政の城といわれているが光衡時代か頼明の時の出城と思われる)と呼ばれるものと、小里城山城(光忠系小里氏のもの)がある。小里氏の名はこのあとも史書にしばしば表われるから、その裔はなお続いたものと思われる。

 道三も、天文末から弘治年中にかけては、美濃の旧土岐勢力の反発に加えて、織田氏との対決に精一杯の時で東濃のことにまで手が及ばず、さらに弘治二年(一五五六)には子義龍と長良川に戦って敗死している。 この間に武田信玄(晴信)は木曽・伊那郡をも従え、美濃国の兵乱に乗じて恵那・土岐両郡を勢力下において鶴ヶ城の土岐三兵衛信友・小里城の小里光忠らを組下とし、翌弘治三年には、これらに高山城を侵略した御嵩の小栗氏を攻めさせ、大富・浅野・高山の戦のあと小栗氏を降して平井氏を高山城主とし、可児郡を含めた東濃の大半をその勢力下に入れている。

 小里城の修築工事は、この天正二年のほか翌三年五月、「長篠の戦」に武田勢を大破した信長の六月の「岩村城攻撃」の命令によって行なわれた。記録によると岩村攻撃の大将織田信忠の本陣として改修工事が進められており、濃州小里記では「城之助信忠公発向被成けり、其刻小里之城を向城に可仕、其の支度可致と前広に被申候故、土岐郡の人夫三十日斗相詰め、本城の升形此刻築き申候 岐阜より本陣を小里の城に被移、爰に三日御逗留有之岩村城へ押寄せ給う」とある。また、小里家譜では「天正三年春、信長公岩村へ御発向の時、小里に御立寄り、城地を御覧有って被仰けるは、是要害の所なり、信州併びに岩村の押へとなるべし。かつまた我が一宿の旅館にも宜しとて、明年当国の城主らに被仰付、城普請の助力被仰付、土堤・石塁・櫓等出来、城の近辺の小高き所ことごとくならす、百姓共名付けて躍場と云う」とし、仕事初めは「天正四年(一五七六)二月二日」としている。
 岩村城は信忠によって天正三年十二月二十一日落城しており、信長公記では神箆・小里城らの強化普請を「天正三年二月」としているから、小里家譜による岩村落城後の「天正四年二月に仕事始め」の記述には疑問を感じ、やはり天正ニ~三年にわたる修築工事と考えられ、岩村攻撃の信忠は、小里記の記述のようにこの小里城を本陣にし、ここから岩村へ発向したものであろう。

 江戸時代

 織豊時代の終わりに岩村城森・田丸両氏によって支配されていた当市も、関ケ原合戦に徳川方が大勝するとこれに属していた郷土の小里氏や明智の遠山氏が市内の旧地を回復し、木曽氏一族の山村・千村・馬場氏らも知行地を得て新しい支配者となり、岩村城二万石へは松平氏が入部してこれも当市内の一部を所領した。

 やがて小里氏は絶家してその知行地は幕府直轄地(天領)に編入され、木曽衆も尾州家に組み入れられてその知行地は尾州藩領となった。

(瑞浪市史 歴史編より)

稲津町 小里城山城跡

 小里城山城跡は、小里記によると土土岐氏の支流である、小里出羽守光忠が天文3(1532)年に築城した山城で、以降小里氏代々の居城となった。
 城山の麓を少し登ると一ノ木戸跡の石積が残り、ついで二ノ木戸となる。次の三ノ木戸(大手門)の石積は左右共よく残り、その上に御殿場と呼ばれる曲輪が残っている。これより600mの急坂を上ると頂上に至り、そこには本丸(櫓)の石積が残っている。(県指定文化財)

(『歴史発見イラストマップ』より)

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