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鶴ヶ城(神箆城)御城印

鶴ヶ城(神箆城)御城印
鶴ヶ城(神箆城)御城印

販売場所
 きなぁた瑞浪 TEL0572-26-8617
 加納屋商店 TEL0572-68-5655
 アイボリーコースト TEL0572-68-4085
販売価格
 「鶴ヶ城」1枚300円
 「神箆城」1枚300円


明智光秀ゆかりの地

 土岐一族が城主であったと伝わり、神箆(こうの)城とも呼ばれる山城。天正2年、武田軍が明智城を包囲すると、織田信長は、この鶴ヶ城と小里城(瑞浪市稲津町)を固め、最前線基地として武田軍に対抗しました。また、天正10年武田征伐の際には信長と光秀が鶴ヶ城に立ち寄ったとみられています。

 築城は美濃守に任ぜられた源国房の時、初めて土岐氏を称した光信の時、あるいは建仁元年(1201)源頼朝から美濃国守護に任じられた光衡の時ともいわれ明白ではありません。城は鎌倉時代の典型的な山城で、戦国期には武田方に対する織田方の前哨地の中心的な砦となり、関ヶ原合戦後は廃城となりました。

瑞浪市土岐町(字中町)2659-3
瑞浪市教育委員会 スポーツ文化課 TEL.0572-68-7710
JR瑞浪駅下車タクシー5分 中央自動車道瑞浪ICより10分

史跡 鶴ヶ城跡

 鎌倉時代美濃国守護になった土岐光衛は土岐邑の一日市場に居館を設け神箆のこの地に城を築いて鶴ヶ城と称し、四周を整えて美濃国統治の本換とした。
 その曽孫で室町時代初代 の守護に仕ぜられ土岐氏繁栄のもとを築いた頼貞もこれに倣いここを美濃府城の地とした。
 このほかに、本城は頼貞の第十子で正中変に殉じた土岐頼兼の城として有名であり以降関ケ原合戦まで神箆城・土岐城とも呼ばれて戦史にその名を載せており、天正10年(1582)2月の織田対武田合戦時には、信長信忠父子も本城に入城し、ここから武田氏攻略の軍を発進させている。

 瑞浪市教育委員会(現地の看板より)

鶴ヶ城跡

 鶴ヶ城は典型的な中世の山城で、深い堀切、断崖絶壁な切岸、そして山頂には千畳敷といわれる曲輪跡が残されている。これらの設備は、元々あった山城を織田信長が人工的に造らせた土木設備とも伝えられている。鶴ヶ城は神箆城•高野城とも書かれ、鶴が両翼を広げた形に似ていることから鶴ヶ城と呼ばれた。
 天正10年(1582)春の武田攻略時には、織田信長・信忠現子も止宿したと言われている。なお、関ヶ原合戦(1600)以降廃城となった。

(瑞浪市下街道マップより)

鶴ヶ城址

 築城は、鎌倉初期で土岐を称した光衡から頼貞までの代々土岐氏の本城でしたが、頼貞の子、頼遠が長森城(岐阜市)に居館を移した為、鶴ヶ城は弟の頼兼の居城となりました。天正10年(1582)の織田・武田の戦では、織田信長も鶴ヶ城に入城したと言われています。慶長年間には、岩村城の出城となりましたが、関ヶ原合戦後に廃城となりました。主郭付近は土岐神社の境内と
なっており、東西の出丸跡の先端部が中央自動車道建設(1973年)により無くなりましたが、遺構は現在も良く保たれています。
 鶴が左右に両翼を張った形に似ていることから鶴ヶ城とよばれていました。
 毎年4月に交通安全祈願祭が行われ鶴城区民が参加し、管理しています。

(土岐地区 郷土再発見より)

灯籠

土岐町鶴城城跡入ロ (元文五・1740・単・角・市岡怒水・源兵衛)

(ふるさとの石碑と灯篭より)

土岐鶴ヶ城

 国府の城・神箆城とも呼ばれ、築城は土岐氏を称した光信の時とも、その父国房の時ともいわれていますが、明白ではありません。頼貞と正中の変に戦死した頼兼の居城と伝えられ、元亀・天正年間の織田対武田氏の攻防戦にも重要な役割りを果たしてい
ます。(土岐町鶴城、市・県指定史跡)

(瑞浪市の歴史より)

神箆鶴ヶ城跡

 鶴ヶ城は中世には神箆城・国府城・神野城・高野城、戦国時代には土岐城とも呼ばれ、土岐町鶴城地内にある鎌倉時代特有の天嶮の山塞城で市・県の史跡に指定されている。
 築城は国房・光信とも伝えられるが、光衡の代を降りることはないと考えられており、建仁年中(一二〇一~三)鎌倉源家幕府から美濃守護に任ぜられた光衡は、姓を源氏から土岐氏と改め、守護の家と地にふさわしい様に神戸城(土岐町一日市場)を居館として整備し、東方の神箆城(土岐町鶴城)を国府の城として改修し、南に光善(興禅)寺を建立して土岐氏の菩提寺とし、土岐氏および美濃国統治の基盤と威容を整え、美濃守護として今の土岐町を中心に国中に号令したと考えられる。
 城跡の御殿跡には葵の井戸・礎石などが残り、昭和三十四年九月の伊勢湾台風によって倒伏した樹木の根元からは、東西の出丸跡を中心に多数の柱(柵)穴が発見された。山頂は千畳敷と呼ばれる広場になっており、北は裏山に対して切通しがなされ、南は物見などの名が残っている。 この広場に現在は土岐神社(祭神土岐頼兼)が祀られ、頼兼・国長に対しては明治三十八年十二月正中の変の忠烈をたたえられて正四位が贈られている。
 なおこの鶴ヶ城はこれ以降戦国時代に至って信長の岩村城秋山氏攻略や関ヶ原東濃合戦にも神箆城・土岐城などの名で戦史に名を出すが、鶴ヶ城の名はやはり頼兼の居城であったことに代表され、昭和四十八年中央自動車道の建設に伴い、東出丸跡の部分が削り取られ、鶴ヶ城の名の由縁の一翼が姿を変じたことは残念であるが、それを除く城跡からはなお天嶮を利用した不落の山塞城であることが充分に窺われる。

土岐鶴ヶ城(旧神箆城)

 国府城・土岐城とも呼ばれ、御殿跡(本丸)に対して東西の砦(出丸)が丁度鶴が翼を広げたような形になっているところから鶴ヶ城の名が付けられ、鶴城が現在の地名に、神箆が旧村名になっている。築城は国房ともその子光信のときともいわれているが明白でない。しかし美濃国守護となった光衡の代に居館としての神戸館(一日市場館)、菩提寺としての光善(興禅)寺とともにこの城も整備され、前記の法明寺の堂宇とともに旧土岐邑が土岐氏の本拠地らしい国府としての構えが整えられたことは想像される。城は東・南・西は屹立していて自然の要害に恵まれ、北は切り通しになっていて北方の山から独立させた鎌倉時代特有の山城で、信長のころにも土岐城の名でしばしば戦記にその名を載せている。

 神箆城の修築工事については、昭和三十四年伊勢湾台風によって城跡の樹木が倒伏し、その根元の凝灰岩層に数多くの柵柱の穴跡が発見され、中央自動車道建設に伴う同四十八年の調査においてもより多くの柱穴などが確認された。中世における築城時のものかも知れないが、 一応この折の強化普請の跡であろうと考えられる。また戸狩城跡の柵穴も同時期のものとすると、同様同城もこの時強化されたことになる。

(瑞浪市史 歴史編より)


鶴ヶ城 ときは今!

令和元年11月24日 日曜日 開催イベント

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