ちゅうまかいどう
中馬街道
POINT!
信州飯田より尾州名古屋へ通じる物資を運ぶ道がありました。
明治20年から30年にかけて恵那郡議会で中馬街道と命名。里程六里三十町上村地内平谷より土岐郡界まで。
東辻町道標
右:あけち-しなの
左:いわむら-きそ道
中馬街道とは、信州と名古屋を結ぶ道のことです。
中馬とは、信州で始まった運送業の組合で、信州の百姓が副業として始めは自分の荷を運んでいましたが、次第に商品を運ぶようになり、経済の発展とともに商品荷物の運送業になっていきました。
東海道や中山道など五街道と呼ばれる街道では、幕府公認の傳馬と呼ばれる馬が宿場ごとにありましたが、主にお上の御用に使われるもので、庶民が利用しようとすると高額の駄賃が必要でした。それに宿場ごとに馬を替えなければならないという替え馬制度があり、その度に手数料を取らました。
中馬街道は通し馬で名古屋まで運ぶことができ、通行料や手数料も取られないということで発展しました。
宝暦9年(1759)お上御用の問屋場との間に紛争が起きますが、明和元年(1764)には幕府公認となりました。
中馬街道は、飯田→根羽→足助→岡崎→名古屋へと行くのが本街道ですが、大廻りであるということから、飯田→根羽→上矢作→明智→陶→曾木→柿野→瀬戸→大曾根→名古屋へと至る脇街道も使われました。
脇街道は峠が多く冬は雪も深いけれど、距離的には12kmほど短かかった。
名古屋へは塗り物・曲げ物・木炭など、陶からの陶器も、信州へは綿布、海産物などが運ばれました。
(中馬街道大川地区散策資料より)